青春ララバイ

 

青春ララバイ

 

 

 

 そろそろ、夏の高校野球宮城大会が始まる。シード枠が8校まで拡大されてからと言うもの、シード校が序盤で消えても、さして話題にも上らなくなった。番狂わせの文字は、東北・仙台育英の為に用意されているようなものだ。群を抜く私立二強の存在が、残りのシード枠を「ひとからげ」にしてしまったのだ。

 

 

 22回卒の横田一秀君が、二強の牙城に最初の意地を見せたのは、昭和58年の65回大会。自ら率いる気仙沼高校を第4シードに導いてのことだった。地域の逸材を発掘し、戦いの場に臨んだ意義は大きい。

 

 昭和46年宮城教育大に入学した横田君が、定期戦の次に主戦場としたのが仙台六大学野球リーグ。弱小チームにあって、一人黙々と野球に取り組む姿が印象的だった。その背中には求道者の魂が漲っていた。青葉山の急峻に一人ペダルを漕ぐ姿を目撃する度に、そう思ったものである。多くを語らない彼とは疎遠になるばかりだったが、十年一日の如くトレーニングに励む姿は今でもはっきりと思い出せる。

 

 

 社会人となって8年ぶりに再会した当時、彼は初々しい青年監督。自分は高校野球の初仕事に燃える駆け出しのディレクター1年生。「甲子園への道」の担当を仰せ付かって、いやが上にも張り切らざるを得ない状況だった。 

 プロデューサーからの指示で、テーマは確か「監督と愉快な仲間」。第4シード気仙沼高校は公立の雄としてそれ程注目されていたのである。 

 本町はFM仙台の向かい側にあった岩井旅館に取材に押し掛けたものだ。 

 

 それがどうだ。初戦の結果は6対0、工大電子(現、東北工大高)にまさかの大敗だ。完封負けのチームに「監督と愉快な仲間」もあったものではない。企画が没になった穴埋めには、横田君の敗戦の弁しか残されていなかった。 

 敗軍の将、兵を語らず。横田君もその例に漏れなかった。

 

 傷ついたエースを庇った、あの時の横田君の鉄面皮だけは今でも忘れられない。同じ投手出身者として懸命に痛みを分かち合っていたのだろう。東北・育英に迫れなかった無念さを思って、そっと見守った自分は今でも正解だと思っている。しかし、これには、散々だった自分の負け惜しみが入っていることを正直に告白しておこう。 

 

 横田君はそんな軟な人間ではない。むしろ打たれ強い男だ。自慢もなければ、負け惜しみもない。まして言い訳などはサラサラない。自分の背中で詩を書ける指導者だと思う。なかなか洒脱な詩人だと思う。

 

 ちょうど10年前、宮城大会の第1シードを手にした時の、横田君と江尻の劇的な邂逅を思ったものだ。もともと、横田君は努力の人だ。人一倍強い野球への情熱を努力で支えて来た彼と、才能と感性でその溢れるばかりの情熱を奮った江尻と、異質な個性が交錯した意義は、むしろ江尻にとって大きかったと思う。 それを知ってか知らずか、横田君はあいも変わらず寡黙を通す。大吟醸の残り香のように、彼の熱血はサラリとしている。

 

 6月3日、イースタンリーグのロッテ戦に先発した江尻は5失点で負け投手になった。2本のホームランによるあっけない敗戦を聞く一方で、今日も淡々と球児の指導に当たる横田君の姿が印象深く思い出された。

 

平成18610日  齋藤 茂

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